金子裕美
体育の教員経験や子育て経験を生かして、主に教育、スポーツ、キャリア分野の取材記事を執筆しています。外国人の方にインタビューする機会が増えつつあり、通訳を介さずにやりとりしたくなって、遅ればせながら英語の勉強を始めたところです。中学レベルから頑張るぞー! バレーボールNEXtブログ http://vbnext.com
BALNIBARBI RECRUITING
金子裕美
19歳で結婚。38歳にして高3と中3のお子さんをもつ中松洋一シェフ。大切な家族を支えるために料理道をまっしぐら。その才能をバルニバービで昇華させ、“GARB MONAQUE(ガーブ モナーク) グランフロント大阪”のシェフとして店を切り盛りするほか、新店舗の支援やシェフ対象の研修で講師を務めるなど活躍の場を広げている。シンボリックなこの店で、お客様が喜んでくださるメニューを次々に生み出しファンを増やすとともに、身につけた知識やスキルを惜しみなく提供して後進を育てる、新時代シェフの歩みをたどった。
GARB MONAQUE(ガーブ モナーク) はいつも多くの人で賑わうグランフロント大阪のうめきた広場にある。モーニングに始まり、ランチ、カフェ、ディナー、バーと、さまざまな利用の仕方ができるため、早朝から深夜まで人が絶えない。
「(そんな店を任されて)最初はビビリましたよ。場所が場所だし、シェフは初体験だし…。その上、初対面のメンバーばかりだったので、2年くらいは営業するだけで精一杯でした」
特に週末の忙しさは想像を超えていた。あうんの呼吸で動くことができないチームにストレスが溜まる毎日。
「今思えば、自分がシェフとして未熟だったので、辞めていくスタッフもいれば入って来るスタッフもいて大変でした」
そんな悪戦苦闘の日々を支えたのは持ち前の責任感と向上心だった。
「忙しい店というのは1日に作る料理の量が違います。他店よりも圧倒的に多いので確実に腕が上がります。2年ほど無我夢中でやっていると信頼できるスタッフも1人、2人と増えてきて、ようやく自分らしさを発揮できるようになりました」
さらにスイスで仕事をする機会に恵まれて「自信がついた」という。
「米村昌泰シェフが招待されたイベントでした。米村シェフの料理を本場フランスの3ツ星シェフや日本人シェフに振る舞うために、シェフが僕を選んでくれたのです」
サンモリッツのホテルに10日間くらい滞在し、スイス人スタッフとともに準備から関わった。
「彼らはドイツ語を基本に4カ国語を使います。カタコトの英語で指示を伝えるのですが、これが笑けてしまうくらい伝わらないんです。ただ必死なので、相手も僕の言葉を理解しようと耳を傾けてくれて、なんとかやり遂げたことで自信がつきました」
シェフになると、立場上、上に立つことが多く、こうした学びの機会はなかなか得られない。
「バックグラウンドが異なる料理人と心を通わせる方法を模索しながら料理を作った経験が体に染みついて、GARB MONAQUE(ガーブ モナーク) の店づくりにも役立っています」
それから3年あまり。「この店が自分自身や自分を取り巻く環境を変えてくれた」と言えるまでになったのは、レコメンドメニューによるところが大きい。
「料理人のやりがいは、自分の料理を提供し『おいしい』と言っていただくことだと思うんです。それがお客様の幸せになるので、自信のあるデザートから始めて、ディナーのレコメンドにも力を入れるようになりました」
GARB MONAQUE(ガーブ モナーク) は場所柄、いろいろな人が利用する。リピート客を増やすことが難しい。
「ところがレコメンドを始めると、それを楽しみに足を運んでくださる方がいらっしゃいます。今はオーダーの合間にやることが多いのですが、以前は営業が終わってから、ちょっとビールを飲みながら…(笑)、試作をするのは楽しかったです」
気がつけば、社内のSNSにアップするレコメンドの数はダントツ。しかも季節感の取り入れ方や素材の組み合わせ、盛り付けの仕方など、細部にわたる工夫が注目を集めている。そんなシェフに憧れて、GARB MONAQUE(ガーブ モナーク)には調理に興味をもつスタッフが増えて来た。中にはアルバイトをきっかけにシェフを目指す子もいるという。
「僕は(スタッフに対して)『なんでも教えるよ』と言い続けているので、やりたい子は『シェフ、明日デザートを教えてください』などと言ってきます。声をかけてくれた子には丁寧に教えています」
いまやGARB MONAQUE(ガーブ モナーク)はスタッフ一人ひとりが能動的に仕事をする集団となり、チームとして高いパフォーマンスを発揮している。
中松シェフの“なんでも教える”というスタンスは、自身の体験の中で培われた。
「子どもの頃から調理が好きで、両親の帰りが遅い時に簡単な料理を作っていました。高校時代には調理の専門学校に進学したいと思ったこともありましたが、家庭の事情で印刷会社に就職しました。給料が一番いいところを選んでもうたんです」
19歳で結婚し、家計を支えなければならなくなったため料理の道へ入りにくくなったが、その夢を知っていた奥さんの友人が誘ってくれた。24歳の時だ。
「彼女が嫁いだ長野のワイナリーに付設のレストランがあり、『そこで働いてみないか』と言ってくれたので、家族を連れて長野に引っ越しました」
レストランの窓からはブドウ畑の斜面を一望できる。雄大で優しい大自然が魅力の場所だった。
「印刷会社では毎日ルーペで文字を見ていました。24時間体制だったので夜中に働くこともありました。そういう生活とは一変、のどかな場所で好きなことをやれることになったので、早く仕事を覚えたいという気持ちでいっぱいでした」
そこで出会ったのが、東京・赤坂にあるGARB CENTRAL(現在はDRAWING HOUSE OF HIBIYA)の畦上誉志夫シェフだ。
「同い年なんですけどね。僕は初心者だったので畔上さんに1から教えてもらいました。心がけたのは与えられた仕事を確実にやることです。聞けば畦上さんが丁寧に教えてくれるので毎日が楽しかったです」
もちろん受け身でいたわけではない。目に入るものは焼き付け、盗めるものは盗んでいた。
「教えてもらう時に『こいつ、そこまで見てんのや』と思ってもらえたら、(本気が伝わって)信頼関係が深まるじゃないですか。1年で魚や肉を焼けるようになり、メニューを考えさせてもらえるようになると、畦上さんのほうから『これ、どう思う?』と聞いてくれることがあって、それがめっちゃ嬉しかったです。信頼されているのかなと思いました」
それが原点。
「『嬉しい』という気持ちが成長につながるから、今でもわからないことがあれば遠慮なく聞くし、教えてもらえるとありがたいし、僕を頼ってくれる子には知っていることを教えたいのです」
3年もすると2番手を任されるまでになったが、長女の小学校入学を機にレストランを辞めて大阪に戻った。
「車の運転ができないと不便なところだったので、奥さんが帰りたがっていたんです」
長年の夢だった料理の世界にどっぷり浸かり、時間を忘れて仕事に没頭する夫に対し、どこにも行けず、一日中、幼い子どもたちの世話に追われる妻。「仕事を変えてほしい」と言われたこともあったという。
「同じ年に畔上シェフも辞めて東京へ行くと言うので、これを機に僕は大阪で本格的なフレンチを学ぼうと思いました」
家族の思いを汲んで、長野にいる間に次の働き先を決めて戻って来たが、思い通りにはいかなかった。
「1ツ星のフレンチレストランに入ったのですが、料理を学びたいという思いを満たすには時間がかかる環境でした。1ヵ月半くらいで辞めて、他のフレンチレストランで1年半ほど働きましたが、そこは経営不振で店を閉めることになり、29歳で職を失いました」
その後、カレー屋を営む親戚に「夜だけ酒のあてを出せないか」と相談されて、その店舗で夜だけビストロを営業したが、店の収益だけでは家族を養えない。
「24時頃、家に帰って仮眠をとり、早朝からバイトをして、17時にはまた店を開けるという生活が続きました」
一足先にバルニバービに入っていた畔上シェフから電話をもらったのは、そんな時だった。
「『大阪で人が足りへんから来ないか』と誘ってくれたのです」
この電話をきっかけにバルニバービに入社。南船場のカフェ ガーブに2年半ほど勤めた時にオープンしたガーブ モナーク グランフロント大阪でシェフとなり、今に至っている。
店舗数もシェフも多いバルニバービは、料理人として学ぶことに飢えていた中松にとって格好の場だった。水を得た魚のように天分を発揮。向上心がありストイックに料理の腕を磨く姿が上層部の目に留まり、シェフ候補が参加する海外研修や佐藤裕久社長との食事会などに声がかかるようになった。
「バルニバービに入った頃の僕は、こういう料理を作りたいという気持ちが強かったんです。もちろん自分のエゴだけでは作れません。お客様に受け入れてもらえるものでなければいけませんが、作り手に気持ちがなければお客様に伝わらないので、そこを認めてもらえたのだと思います」
一流の料理に触れる中で、創造力を掻き立てられたのがデザートだ。デザートはフルーツの組み合わせや盛り付けの仕方でお客様の反応が変わる。
「女性のお客様は、皿を出した瞬間に『ワーッ』となって写真を撮ってくれるので、ガーブ モナークのシェフになって余裕ができた時に、真っ先にオリジナルのメニューを出したいと思いました」
デザートは長野から大阪に戻り、最初に働いたフレンチレストランで基礎を学んでいた。
「そこは人の出入りが多く人手が足りていなかったので、僕がシェフパティシエの下でデザートを手がけることになりました。基本的なことを教えてもらうとデザート作りが楽しくなって、ますます料理への興味が広がったことを覚えています」
ビストロの営業を始めると近所にケーキ屋ができた。そこのパティシエと出会ったことも大きかったという。
「店が近いのでお互いの店を行き来しながら、その人からもいろいろと教えてもらい引き出しが増えました」
インプットが十分でなければアウトプットはできない。
「最初は素材の組み合わせにしても盛りつけにしても、SNSやテレビ番組などを見て勉強しました。自分で作ったメニューも必ず写真を撮ってストックしています」
そういうものをベースに常にアイデアを求めて無意識の中でも思考を巡らしているから、ひらめく瞬間がある。
「片道10kmくらいの距離をロードバイクで通勤しています。音楽を聴きながらペダルを踏んでいる時にひらめくこともあれば、家でお酒を飲んでいる時にひらめく時もあります。考えてみれば、何も考えていない時に出てくることが多いですね。本やSNSなどで人の作品を見て、俺だったらこうするかなというようにアイデアをふくらませることもあります」
例えば、クリスマスメニューは9月に提出を求められる。
「暑いさなかに頑張って考えますが、涼しくなるとより良いアイデアがひらめくことがあります。その時期が近づくと違うものを作りたくなります」
そうした際には、もう一度考え、メニューをブラッシュアップする。
「“お客様思い”とは、妥協しないでより良い一皿を生み出すことだと思うので、メニューには必ず『変更することもあります』と明記して最善を尽くします」
ガーブ モナークだけでなく、新店を3店舗統括する多忙な日々を過ごしながらも、ディナーのレコメンドを次々にアップできるのはなぜか。その方法を尋ねると惜しげもなく教えてくれた。
「食材の組み合わせがひらめいたら、それを軸に3パターンくらいバリエーションを考えます。さらにこの食材も合わせてみようとか、熱いものと冷たいものにしようとか。これを焼いてこれを蒸すとか。いろいろと試して経験を積んでいくうちに成功パターンができてきて、それが自分の料理になります」
アイデアを広げるために、料理のエッセンスをデザートに、デザートのエッセンスを料理に生かすこともある。
「デザートにワインのジュレを使ったり、ハーブを使ったり、スパイスを使ったり…。別のジャンルのものと組み合わせると発想が広がります。料理にフルーツを使う時は、口の中でドレッシングを合わせるイメージで使うことが多いです。フルーツを噛んだ時にジワーッとくだものの酸味や甘み、香りが広がるように切り方を工夫してサクッと合わせる。そういう発想なので、あまりピューレにはしません」
ビネガーの代わりに米酢を使うなど和食の素材を使うことも多いという。
「西京味噌や醤油などの調味料、珍味や加工品…、昆布もよく使いますね」
異色の食材や調味料を使いながらも、試作が一発で決まるのが自慢だ。
「作りたいものがあっても、かけられる時間と手間には限界があるので、効率も合わせて考えます。前もってどれだけの準備ができるのかをイメージし、仕込みや手順も含めて完成度の高い状態まで頭の中で構成し、試作することを心がけています」
ディナー専用のデザートにはパイ生地にフランス産のバターを使うなど食材にこだわっているが、ただ使用するだけでは感動を生み出せない。
「香りを楽しんでいただきたいので、パイ生地を冷凍で保存し、オーダーをもらってから卵を塗って焼いて、焼きたてをお出ししています。もちろんお時間をいただくのですが、お客様にとって嬉しいことやから、そういう手間は惜しみません」
「バルニバービに入社していなければここまでの腕はなかったと思う」と中松シェフ。たくさんの学びを与えてくれた環境に感謝しているという。
経験が浅くても努力すればシェフになれる。そのモデルとして自分の経験を伝えたいという率直な思いが若いスタッフの心に届き、学生アルバイトであっても積極的に仕事に関わるスタッフが増えている。
「その意欲を大切にしたいので、デザートは最低限のルールを決めて『それさえ守れば、盛りつけの仕方は自由にしていいよ』と言っています。例えばフルーツを横に盛ってもいいし、中心に盛ってもいいので、毎回変えてくる子もいます。そういう子はドヤ顔で『どうですか』と言ってくるので『いいやん』とほめて、お客様にお出しするところまでさせています。お客様が喜ぶ顔を見たいのはみんな同じだから。その喜びを力に変えて成長して欲しいと思っています」
一方、手が遅いスタッフにもできそうなことをどんどん任せている。
「(経験を重ねるうちに)できるようになればその子も嬉しいし僕も嬉しいからです。(スタッフに)できることが増えれば僕が助かる。その子が頑張る姿を見て、周りも応援するようになる…と、いいことづくめなので、それぞれに応じて接しています」
田中亮平バルニバービオーガスト社長(バルニバービ取締役 兼務)をはじめ周囲の人たちが中松シェフの人材育成に期待を寄せるのは、一人ひとりの個性をつぶさずに、能動的に仕事に関わり、協働作業ができる人に育てているからに違いない。
「『中松とやっていたこいつら、すげーな』と言われるような後進を育てたいですね。そうすればその子たちも信頼されるし、店や会社も強くなります。自分が成長することももちろん望んでいますが、今は人を育てることに大きな喜びとやりがいを感じています」
そうした思いに至ったのは、家族が仕事を理解し、心から応援してくれることが大きい。
「今、ものすごく忙しいのですが、そういう時は家族が店に来てくれます。高校生の娘は友だちを連れて来ることもあります。僕の親も来ます。来てくれると嬉しいですし、子どもたちに親が働いている姿を見せることができるのはとてもいいこと。仕事への理解にもつながり、思う存分仕事に打ち込むことができています」
前述のとおり、子育てが大変な時期に料理人になった中松シェフは、奥さんに負担をかけることが多かった。
「大阪に戻ってからは、『他の仕事をしてほしい』と言われることはなくなりましたが、子どものためにできたのは入学式や卒業式に出席したり、子どものフットサルを見に行ったり、誕生日にオリジナルのケーキを作ったりすることくらい。僕が遅くまで仕事をしていると、田中社長が『奥さん、大丈夫か?』と、今も冗談混じりに声をかけてくれるのですが、バルニバービがそういうあたたかい会社だったから今のような家族との関係を築いて来られたと思っています」
料理人と家庭生活を両立するには「どれだけ家族が理解してくれるかがポイント」と中松シェフ。
「そういう意味では、バルニバービは自分の頑張りが伝わりやすい会社だと思います。毎日、家で仕事の話をするわけではありませんが、海外研修、メディアの取材など、バルニバービに入ってからいろいろな経験をさせてもらっています。そういう話はするので、挑戦し続けているうちに認めてもらって、今の役職(バルニバービオーガスト取締役)に就けたことを家族も徐々に理解し、応援してくれるようになりました。子どもも成長し、好きなことができる今、ますます仕事に打ち込んで会社に貢献したいと思っています」
この記事を書いた人 & 編集後記
金子裕美
体育の教員経験や子育て経験を生かして、主に教育、スポーツ、キャリア分野の取材記事を執筆しています。外国人の方にインタビューする機会が増えつつあり、通訳を介さずにやりとりしたくなって、遅ればせながら英語の勉強を始めたところです。中学レベルから頑張るぞー! バレーボールNEXtブログ http://vbnext.com
バルニバービに入社して8年(2019年現在)。料理の腕もさることながら、会社、家族、料理人仲間や店のスタッフとの信頼関係を確固たるものにし、今後の活躍が大いに期待されているシェフでありながらも、おごったところが全くなく、おおらかに接してくださる中松さん。料理への情熱と家族への愛を原動力に、“なりたい自分”をどこまでも追い求めていく…、こういう人こそがバルニバービが求めている人材なのだろうと感じました。