福地 恵理
㈱バルニバービ IR/広報担当。学生時代からフリーランスでレストランサービスに携わり、外食一筋18年。10社以上多種多様な飲食店でのホールサービス、レセプショニストとしての経験を積み、2010年㈱バルニバービ入社。代表秘書と広報を兼務し、2015年同社上場後はIRも包含した企業広報を担当。好奇心旺盛につき、修行をかねて現在社会人大学院生としても奮闘中。
BALNIBARBI RECRUITING
福地 恵理
『コミュニケーション』とは何か?私はそんな深く考えたことはなかった。
単なる情報伝達ではないにしても、漠然と「会話・対話」と認識していたくらいであった。
なんとなく言葉の意味は知っているが、“そもそも”『コミュニケーション』とは何か?を考えるのはとても大切なことだと思ったので、私見も交えて記述したいと思う。
まずは言葉としての定義を調べてみる。
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〇語源
英語:communication = ラテン語:communis ( common, public, 共通の) communio(交わり, comm共に unio一致)+ munitare(舗装する, 通行可能にする)
〇定義
1. 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。
2 .動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。
出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例
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うーん、言葉の定義って難しい・・・笑。でもこんな実は、的なうんちくや言葉の意味を考えるのは嫌いじゃない。
『コミュニケーション』は、ただ一方通行に話すだけではない『伝達し合う』、相手がいるのが分かると思う。
ここで大切なのが、双方向=相手がいればいい、ということではなく相手の受け取り方により情報が意図しない形に変化してしまうということだ。
自分に暗示をかけている場合は除き(たまに追われているときに、大丈夫大丈夫・・と言い続けていることがある笑)『コミュニケーション』とは双方向のやりとりで生まれるものであって、情報のキャッチボールだということである。
よくある例として、こういったはずなのに、とか間違えて解釈された・・なんてことはないだろうか?それは『コミュニケーション』が受け手によって左右されるものだからなのだ。
文化や生まれ育った環境の違う外国人はもとい、出身地の違う日本人同士でも方言や生活環境により同じ言葉が違う風にとられる、なんてことは日々起こっている。
『コミュニケーション』とは、送り手が投げるメッセージに受け手が意味づけをすることにより、初めて成立するものだということがわかる。
「目は口ほどにものをいう」というが、言語として話すだけではないメッセージの伝達が存在する。それを『非言語コミュニケーション』という。
飲食店にくるお客様でも見た目や持ち物、風格で直観してこんな人かも、と思ったことはないだろうか?
『コミュニケーション』=直接の対話、だけではなく、言葉だけではない『コミュニケーション』(非言語コミュニケーション)が存在するのだ。いわれてみれば、だが確かに!であった。
ではどのくらいの割合で言語と非言語が『コミュニケーション』に影響を与えるのだろうか?ここで『メラビアンの法則』というものに少しふれてみる。
『メラビアンの法則』は、『非言語コミュニケーション』の重要性を説いたもので、言語、非言語のコミュニケーションが人に影響を与える情報の割合は
Verval 言語情報(話の内容など):7%
Vocal 聴覚情報(声のトーンや話の早さなど):38%
Visual 視覚情報(見た目など):55%
つまり、言語情報が1、非言語情報が9の割合であるという一説である。
想像できただろうか?非言語のコミュニケーションがこんなにも影響を与えているのだ。
かなりの衝撃であった。
ここからは私見も少し交えての話になるが、『コミュニケーション』とは人とヒトが言葉や文字などの「言語」、表情や声のトーンなどの「非言語」といった様々な手段を使いながら意思や感情を伝達し、双方が共通の認識でその情報を理解するために行う対話、と私は考えた。
発する言葉そのものに意味はなく受け手がどう捉えるかに左右されるため、受け手が意図的に文脈をねじまげたり、どちらかの都合のいいように解釈すると、本来の目的である『コミュニケーション』ができなくなる可能性がある。
ましてや最初から相手の文化を知る由もないため、人間が社会生活を営むうえで『コミュニケーション』をとることに普段から慣れる必要がある。
つまり、『コミュニケーション』はすることに意味があるのではなく、お互いを理解するための手段であることを忘れてはいけない、ということなのだ。
受け手中心=「受け手のため、どう相手から見られていて相手が何を求めているのかを考えて発信すること」という解釈ではなく、何かを伝えたい、理解してほしいと思うことが主観的であり、英語でいうならば”please”ではなく”let’s”の面持ちで相手との共通認識をもつために自分自身を客観視して行く必要があるのではないか?
単純な知識不足ではなく、話すことに恐れを感じてしまい伝えたいことがうまく伝えられず質問に答えるだけの内容になったことはないだろうか?
かつて受け手の文脈が今までに自分が関わったことがない背景を持つ人たちであったこと、また自分で自分に優劣をつけてしまい潜在意識が“緊張する相手”というイメージをもったまま望んでしまったことが原因でうまくいかないことが多々あった。
だからこそ今、私は相手との『コミュニケーション』のイマジネーションをもてるよう、相手を知る準備を事前にするようにしている。
『コミュニケーション』が対ヒト、メディア、会社や学校という組織、社会全体など、受ける相手との共通の認識でその情報を理解するために行う対話であるならば、自分の核となる意志を持つこと、背景や理解の進捗を把握するため人間関係の構築を継続していくことも必要なのだ。
この記事を書いた人 & 編集後記
福地 恵理
㈱バルニバービ IR/広報担当。学生時代からフリーランスでレストランサービスに携わり、外食一筋18年。10社以上多種多様な飲食店でのホールサービス、レセプショニストとしての経験を積み、2010年㈱バルニバービ入社。代表秘書と広報を兼務し、2015年同社上場後はIRも包含した企業広報を担当。好奇心旺盛につき、修行をかねて現在社会人大学院生としても奮闘中。